どうも。

id:momokawa-yさんが俺にお怒りらしい。勿論その理由は分かる。id:momokawa-yさんのサイトに俺が批判的な事を書き込み、批判的なメールをしたからだ。以下のページの「A」のコメントをご覧になれば(こっそり書き込んだものなので、当然文体は変えてある)実態は分かる。余り体調の良い状態で書き込んだものではないのだが、その発言を変えるつもりはない。実際この記事を見て思った通りをそのまま書いただけの話である。批判と言えば批判だ。id:momokawa-yさんを批判するような事も書いたがこの当たりは記事で言われている「レトリック」とでもお思い頂きたい。これに対してid:momokawa-yさんは「以後はコメントなど要りません。全く生産的でないですからね。妄想ではなく、具体的な反論なら答えますが、こういうレベルのものであれば容赦なく削除しますので」と返答したのだが、こちらはその返答を所用あって見ることが出来きなかったのと、id:momokawa-yが閲覧不可能な状態になったので、仕方なくメールをしたのである。そのメールもまた同レベル程度には攻撃的な物だった。
それでもid:momokawa-yさんが俺を「荒らし」だとするのは以下二つのid:momokawa-yさんのサイトでは公開されていないコメントによってである。

やぁ、送ったメールに関してはちゃんと参考にしてくれたようだね。だいたいこの程度の論争でサイトを閉じられたりしたら滑稽だ。
だがまぁ、やれやれ、こちらの言った事の半分も伝わっていなかったようで何よりだ。君は「レトリック」だと自分の言った事を言い張るけれど、それはないよ、と言わせてもらおう。何しろこちらは敢えて誤読したのだから(笑)
レトリックというのはまず何だい? 君によれば「レトリック事典」を観れば分かると言う。でも君の言う「言いえて妙」「眼から鱗」なんてのは「レトリック事典」とやらにはない。念のために(漫画の修辞学)http://www.geocities.jp/balloon_rhetoric/というサイトを見てみよう。それは「頓絶法」、それから「隠喩」などといった、書き手がまさにどう書くか、つまり「書く私」はどうかという問題なんだ。読み手がそれを読むときにはメソッドにしたがって読み解かなくてはならず、一般にレトリックが誤解(この場合、君もだよ(笑))されている「文章の書き方にならなんにでも使える葵の御門」などではないことがはっきりするだろう(笑)
ところが君の言っているのはそうじゃない、きみの言っているのはただ単にそれを「読む私」がどうか、という問題に過ぎない。作者として勘案していなくても、君(この場合は君の想定したよくわけの分からない「日常生活」だな)に「言いえて妙!」と叫ばせたら「言い得て妙派」であり、「眼から鱗」を出させたら「目から鱗派」のようだ。こんなのは断じて「レトリック」ではないだろ。ここまで教え諭してやらなくちゃ理解できない訳かな。
また下の人が言っているように、「比喩」のことでも無いだろう。「比喩」と言うのは必ず書き手が読み手にその効果比喩を使うを計算して書く、ということでは無いからだ。書き手の「比喩」が読者に想定外の影響を与える事はある。だがそれはそれでもそれはあくまで「比喩」だ、という風にレトリック上では扱われる。比喩としたがこれは他のレトリックでもそうであって、読み手の憶測は別とすればレトリックというのはある文章から正確に割り出せる。だから漫画の修辞学でも分析が出来ているのだろうね。
つまり君の言っている事は、書き手不在(あるいは勝手に脳内で想定)の読み手からの勝手な思い込み(それも精査な読みを排除した単なるレッテル付け)でしかない。
それから折角花田清輝の名前を出してやったのに、気づく事が出来なかったらしい。花田といえば本来レトリック、レトリックのまるでセットのようにはやし立てられているけれど、その実態は殆どあきらかにされていない。かろうじて由良君美によれば複数作品のコラージュで体をなしている、という話だけれどね。だがその花田の文章もレトリックとしてみればある程度分析は可能だ。複数の文章からなるコラージュも、引用法ならば引用法ということは出来る。
はてなキーワードにもある「単なる言い回し」というカジュアルな意味でも君の言っている事が「読み手がどう思うか」に過ぎず、作者に責任を取らそうとする態度には随分とふざけた物を感じさせる。しかもそこで「日常生活」などという訳の分からない怨敵を作り出すから臍で茶が涌かせるじゃないか。このあまちゃんぶりには辟易して、「現実認識」とか言う君が言うところの「某掲示板の陰湿な手口」(これだけは正しい。だが連中の使う言い分にも聊かなりの理があることは確かだ。「ぼく(あたし)は偉大な芸術家になるの!」「何寝言を言っているんだ、さっさと働け」などというものは明らかに後者に分がある。そしてそういう理論を「日常生活」とレッテルを貼りたいのだろうけど(だってそうとしか思われない。他のところでも「大衆」とか言うタームを気軽に使っていたけど、まさかいまどきオルテガでもあるまいし、現代日本でそんなざまでいいの? とか思わせられてしまう)それでは余りに安直過ぎるんじゃないのかい?) じみた「言い回し」を使わせてもらった、という次第さ。
以上から君が実は「レトリック」を語りたいのではなくて、「小説」を語りたくてうずうずしている事がはっきり分かってくるじゃないか。君は「レトリック」について何も書いていないんだもの。綿矢の名前を出すが綿矢は殆ど小説以外の文章を書いていない物理的事情もあるだろう。ここで君が言った「殆ど小説の世界には用いられない」とか言う理論は突き崩される。つまり君は小説の「レトリック」を論じているのだ、といいたいのだろうけど、はっきり言ってしまうと小説と言うのは論説文などとは違い、「レトリック」のみでかかれるものでは無い。小説と言うのは時として声が混じり合ったり、時には絵を浮かばせる物であり、これが分からない奴はいつもレトリックの陥穽に嵌ってしまう。勿論先にあげたメソッドにしたがって小説家の書くものを「レトリック」で当て嵌め、誤魔化してしてしまう事はできるかもしれないが、小説家はレトリックだけでは小説を書かない。言ってしまうえばレトリックなんていうのは最初に書いた通り、こういう書き方をしている、なんていう方法であって小説を読むための何の一助にもならない。ロッジの「小説の技法」ぐらいは読んでいるだろうな? あれを読んで「レトリック」「レトリック」ばかり口に出来るようならば小説は止めにした方が良さそうだ。
どちらにしろ君が単純な二分法しか使えない人であるというのは明白だろう。
「たとえば作者がAとBをいかに組み合わせ直喩を拵えるか、というのは、単にそのAとBのことばの組み合わせという枠を超えて、その作者自身の態度を表」さない。言葉の組み合わせから作者の態度を勝手に読み込んでしまうのは読み手の暴走であり、作者に全く責任はないだろう。そしてその前に「小説をよむということはありえないのだ」とか断言している時点で君が「小説認識」を晒しているとこっちは見させてもらったね。「どのように作者が小説に向かい合っているか」これも作者に責任はない。あるとすれば読み手だけにだろう。君は最初から読み手の問題視しか言っていない。「私には読めませぇん」が本音としたらそれを早速言葉にしてみる事だ。勝手に作者の意を忖度してこう書いてある、なんていうことは気持ち悪いだろ?(笑)
それからこれが齋藤美奈子と池田晶子を例に挙げている(それにも随分政治性を感じるわけだが)であればこっちもそれほど噛み付きはしないだろう。だがこれが綿矢と鹿島田という文字通り二人の小説家の書いたものを例に挙げている文章であってみれば、これは明らかに小説を読んだ文章だと認定させてもらった。その上で君が小説を読めない人であるということは明白になった。
君が「リアリズム」や「前衛」の区分けで語っていないなんていうことは百も承知だ。だがそれにも拘らず「リアリズム作家」「前衛作家」という言葉を使ってしまうところに最大の問題がある、といっているのだよ(笑)君が「古臭い」「紋切型」呼ばわりしている理論家達だってほんとにそいつらに向き合ってそういう事を言っているんだか。大体君はその「リアリズム」や「前衛」とか言わせている作家の作品をまともに読んだことはあるのかね。とてもまともに読んだとはいえないものだろうな。そういうこともせずにそういう「作家」を作り出して勝手に妄想しちゃうところからも「現実認識」なんて言葉が飛び出して来たに違いない。
「シンパシーとかいう愚劣なものではなく」これも滑稽だろう。シンパシー必ずしも愚劣ではない、愚劣なものと認定するからにはそれを証拠立てる必要性があるだろう。それがない以上「愚劣なもの」よばわりするには無理があり、ある作品(作者ではなく)を呼んでシンパシーを感じた、というのもそれはそれなりに受け入れられる発言ではあろう。
後必要以上に小難しく書いていることも滑稽だな。頭のいいという事を見せびらかしたいのかい? という「人格攻撃」が想定され、それは確かに幾分かは事実ではあるだろう。

これが11月02日付けの記事に書いたコメント。

いや、大学って物凄く能天気なところなんだなと実感した(笑)一年にたかだが映画千本、本千冊読めばokですなんてさ。それで生産消費を嘲笑っている教師だったら余計面白いな。映画を観る・本を読むって言うのは文字通り消費じゃないのかい?
しかも読むと言う事にここまで鈍感な意見も久しぶりに見たな。五百冊読みました(はぁと)てな具合に自慢が入ってきてるのもまた泥臭いと言うか。しかもきわめて読みにくい悪文と来た。もう少し読みやすさは心がけた方がいいよ。
読書メーターって知ってる? 数百冊ぐらい読む読書家さまは世間には結構居るわけだ。しかもそれは殆どな具合に消費だ。笑うべき消費、というわけだ(笑)
しかも読まない奴との差別化を計り「読書していない人のことは分からないものなのだとおもいますけどね」(笑)この厭味を聞くと、読書してない奴はおしなべて馬鹿だ(ではないからお前はダメだ)という連中の方がまだ可愛げがあるというもんだろうね。
読書をする事が文字通りの空疎な浪費だと君は思ってる? それならこんなところに文章を晒したりはしないだろうな。本も読みもしないだろ。ましてや同人なぞ(笑)本を読むこと何れ何かに繋がると思っているから読んでいるんだろう。
そんなんで「野望とか夢とか、さまざまな人参をぶらぶら吊り下げられて、夢を見て全速力で走っている人たち」(妄想の可能性高し)をよく嫉妬できるもんだねえ(笑)

これが11月25日付の記事「1年に1000冊読むこと」に書いた「反論」である。
勿論この反論が「荒らし」と(id:momokawa-yさん個人に)言われる事については反論したいところがある。id:momokawa-yさんの記事に誠心誠意「具体的」な対応したコメントである。おそらく攻撃的だ、という意見が出てくるのは確かであろう。だがそれは寧ろid:momokawa-yさんの記事の調子に合わせたもので、こちらとしてはそれ以上のものでは無い、と言わせて貰おう。