「最後の応答」に対する応答

まず、重大な勘違いをされているようなので言っておくと、id:momokawa-yさんにスパムメールを送ったのは別に俺ではなくて、id:momokawa-yの思い込みだと言う事である。「test test testtest testt test testtt」というのはどうやら俺の使った捨てアドなのだろうが、これをスパムと勘違いされているらしいのだ。「匿名、攻撃的で、卑怯で陰湿な手口だったからである」というのもはっきり言えばおかしい。俺からすればid:momokawa-yさんは匿名だし、実際この人のサイトを訪れる方の大半にとっても匿名だろう。攻撃的な記事も随分と書いておられるように思われる。とにかく匿名が匿名に吼えてもなにもねぇんだよ、という話ではなかろうか。id:momokawa-yさんが実名を晒される時は、俺も喜んで実名を晒したいと思う。勿論出来るならばメールにしてほしいところではあるが。「卑怯で陰湿な手口」というのもおかしい。俺はid:momokawa-yさんにメールを書き、コメントを書いただけに過ぎないからだ。勿論それは攻撃的な物であった事は認めるが、「卑怯で陰湿な手口」といわれることについては変な話であろう。あと少なくとも俺が見た限りではid:momokawa-yさんの書き振りは匿名掲示板の固定ハンドルと似ている。ちょっと反論すればすぐに怒り出す当たりまさにそれだ。それからid:momokawa-yさんは「寝る時間を何でお前ごときのためにわざわざ削ってやらなきゃ」といっておられるが別に俺はid:momokawa-yさんに寝る時間を削っても反論を書いてくれ、などといった覚えはない。時間がある時に出来るだけ書いていただければ結構なのだ。
以上をもってid:momokawa-yさんは大きな勘違いをしておられると思うし、事実を読み間違えておられると思われる。
何しろid:momokawa-yさんの書く文章が余りに高慢で自己中心的なものとこちらは取れたため、批判の対象にしたというわけであって、別に「レトリック」以外にもこの人の書くものに突っ込みどころは多い。批判してあげる人がいないのを可哀想に思って、先手を切って批判して差し上げたと言う訳である。まぁ高慢の鼻を圧し折ってあげたい、と思った訳なのだ。ここまで大騒ぎされるとは思っていなかったが。勿論「レトリック」に関しても俺が正しいと思うわけだが、その反論は以下書いていくことにしたい。
まず根本的なところから行くとしようか。

小学生のころに「言いえて妙派」と「眼から鱗派」に分類したことがあったという事実を書いただけで、様々なレトリックがあることは「今ならば」知っている

しかし、そのそもそもの「言いえて妙派」と「眼から鱗派」が「レトリック」ではなかったとすれば? そんな物は俺個人として「レトリック」だとは思われない。キーヨに心酔したことがある者からすれば尚更だろう。

レトリックが「読む私」に関するというのは間違いであり

これも変な話だ。何しろ俺はそんな事は言っていないからだ。レトリックというのは「書く私」に関するものであり、「読む私」に属する訳がない。仮に読まれるとしたら「書く私」の作法に則って読まれなければならない訳だ。「レトリック」というのは文字通り「書く技術」なのであり、読者の感情が入り込んでくる、というのはおかしい。作者の意図と、読者の見解は絶望的なまでに食い違う。読みやすく書いたつもりなのに晦渋で分かり難いといわれることは多いし、その反対もしばしば起こる。そういう場合に「レトリック」、などと言うだろうか。勿論誤魔化すのが好きな人間であれば言うかもしれないが、実際は違う。「レトリック」と言うのはあくまで書き手が「どう書くか」という問題に過ぎない。だから「漫画の修辞学」と言うサイトを出したのだがお分かりにならないようだ。あそこではいちいち漫画のコマを使って、どういう修辞か、どういう「描き方」をしているか、という事を解説しているからだ。ここで分かるのは読者に言い得て妙だと叫ばせるものでも、眼から鱗を出させるものでも、それは読者側の読み取り方なのであって、「書く技術」とは関係がない、という話なのだ。
つまりid:momokawa-yさんはそもそもの始めから失敗している訳であって、「様々なレトリックがあることは「今ならば」知っている」といわれても本当に「レトリック」の何を知っているのだ、という話になってしまうでは無いか。「十年一日」と書いたのはそういう訳であったのだろう。

明らかに100人が読めば100人が判断できるものである(ただこの当事者は理解どころか判断すらできていない)。たとえば直喩を考えてみればいい。ひまわりのような笑顔だ、と子どもがいうとき、その子どもはイメージを「分かり易く」相手に伝えるために比喩を使っているわけだ

確かにある文章があって、それを百人に読ませれば百通りの読みが出来るのは当たり前の話である。だがそれと「レトリック」が何の関係があるというのか。「レトリック」というのは畢竟するに書き手の問題である。読むとすれば「こういう書き方をしているよ」という以外に読む方法はない。

ひまわりのような笑顔だ、と子どもがいうとき、その子どもはイメージを「分かり易く」相手に伝えるために比喩を使っているわけだ。

まさかそんなませた子供がそう居るとは思えないが、仮にレトリックとして判別すればそれは「比喩」でしょう。別に読み手を憶測させるであれば色々といえる。その「子供」個人にひまわりに纏わる記憶があって、それが他人の顔面に現われたある兆候と偶然の一致を果たしたのだ、という具合にだ。

サファイアのような涙」(ちょっと本が手元にないのでこの通りではないかもしれんが)とはいわないだろう。お前そういう分かりにくい比喩をリアルに聞いたことあるか? 

さて、肝心の「サファイアのような涙」である。これも「レトリック」としてみれば「比喩」であり、子供の「比喩」と差はあっても同じ「レトリック」だろう。それに憶測をすれば鹿島田だって感じたイメージを「分かり易く」伝えるつもりでそう書いているのかもしれないでは無いか。だが分かり易いか分かり難いかは「レトリック」ではない。断じて、と言わせて貰おう。id:momokawa-yさんのいう「子供」にしろ鹿島田にしろ、使っているのは同じ「比喩」という「レトリック」だ。用法の違いにしか過ぎない訳で、使っているものとしては同じだ。RPG世代には寧ろ「レトリック」を「魔法」と言ってもいいかもしれないだろう。RPGの世界観では、子供も魔術師も「ファイア」を使えたりする事がある。だが同じ「ファイア」でも子供が使うのと魔術師が使うのではまた話が違う。だがそれが「ファイア」である事にまず間違いがないのは確かだろう。つまりはそういうことだ。ここまで言えば分かってもらえるだろうか。
勿論「比喩」自体は使い古された「レトリック」で、村上川端横光を上げるまでもなく、普通の人でも本当に日常的に使っている。そしてそれが「比喩」という「レトリック」を使っている事に間違いはない。日常的に使われるものなのである。勿論id:momokawa-yさんはそういう日常的に使われるものとは別に芸術的な使われ方がある、といっておられるのだが、「言いえて妙派」や「眼から鱗派」などと分けられるものではなく、そんなものは「読み手」の問題だと俺は言う訳だ。書き手にとっては「比喩」を使っている事に変わりはないのだ。
せいぜいid:momokawa-yさんの意見をまともに取り合ってあげる点があるとすれば「用法」だろう。「レトリック」の「用法」という訳だ。その点では確かに「子供」と鹿島田の「比喩」は違う。だがはっきり言って小説などを読もうとする場合、作者の意図を汲もうとする事は最大の目的では無い。ただそこに投げ出されたものを徹底的に鑑賞し尽くすことが重要であって、そこに作者の想定した意図や「用法」は関係ないのだ。
もういい加減に「言いえて妙派」やら「眼から鱗派」とかいった下らない言葉を使うのはやめにしようではないか。それはただ単純に読み手が、いやもっと正確に言えばid:momokawa-yさんがどう「感じる」かの指標でしかない。そもそも「レトリック」というものの意味を根本的に誤っておられるのだから、それ以降覚えた「レトリック」とやらも「本当に大丈夫?」と聞かねばならなくなるからである。お分かりだろうか。
それから後は単純なのだが、

つまり「サファイア」と「涙」が繋がるということを発見せざるを得ないだろう。もしお前がこのふたつの繋がりを考えたことがなければ、それは必然的に「発見」になりうるわけだな。読み手がイメージしたことがなければ必然的に発見せざるを得ないのだから、読み手の判断などどうでもいい。つまり「発見する」ということは、「発見したことがない→知らなかった」ということだから

この辺りには溜息が出る。この人はまだ「新感覚派」の時代に生きておられるのだろうか。もうそういう意味での「眼から鱗が出る表現」等といったものは今の時代では普通に陳腐化している。俺がまぁ鹿島田を余り評価していないのはそういうところにある、とこっそり言わせて貰おう。面白い評論があったので教えて差し上げよう。ちゃんと「レトリック」として「直喩」であるとか「喚喩」とか言う言葉を上げて横光の小説を分析されている。もっとも、id:momokawa-yさんにしても、

こっちは隠喩換喩提喩についてもさんざん

などと喚かれるのではあるけれども、はっきり言ってその意味が理解できているかは怪しいのだ。まぁ「俺はレトリック研究者じゃない」とも仰られるが、「レトリック」なんぞと言うのは文学の基本であって、ちゃんと説明も出来ないのがおかしい。「隠喩換喩提喩」だけが「レトリック」であって「言いえて妙派」とか「眼から鱗派」いうのはレトリックでもなんでもない。ただid:momokawa-yさんの「感じ方」にしか過ぎないのだ。「ねんね」という言葉はそこから出てくるのだろう。何度も繰り返すが(繰り返さないと分かってもらえないようなので)漠然とした「言いえて妙派」とか「眼から鱗派」とか言うのは「レトリック」ではありえないのだ。
結局そもそもの話としてid:momokawa-yさんは「眼から鱗が出る(とご本人が「感じる」)「表現」が何か「日常生活(これもよく正体の分からない区切り方だ)」に対立するものである、とお考えらしい。またそういう表現が実際「日常生活」で使われ、「日常生活」を補強する物にしかならない(これはid:momokawa-yさんのタームを使っていっているわけだ。実際はこんな甘いものではないのだが)場合すらあると言う事にお気づきにならないらしい。
それは拙すぎる「現実認識」だといわねばならないだろう。現在の我々の生活はそういう「眼から鱗」なんぞをとうの昔に通り過ぎたところに居るのであって、「言い得て妙」だろうがなんだろうが混ざり合い、混沌としたところに居るのだと言う認識が欠如している。それ故、「レトリック」を勝手に二分してしまう愚を犯すわけだろう。11月02日の記事は「昔はそういう二分法があると思っていたのだけど、今はそういう風な二分法自体が間違いで、それ自体は「レトリック」でもなかった」というような懺悔文ではまるでない。まるで昔考えた二分法が(それが「レトリック」では無いのは明白であるのに)通用しているような書き方をしているところに最大の問題があるのだろう。そしてid:momokawa-yさんの勘違いはこの記事だけにとどまらず他の発言まで波及しているのが最大の問題なのだろう。まさか総ての記事にいちいち返答などはしてられないが。