パクリのid:lain06 6

松岡正剛の千夜千冊からもlain先生は引き写される。

ジュリア・クリステヴァはこの本を書くあいだずっと、二つの書物を念頭においていたらしい。ひとつはジグムント・フロイトの遺作となる『モーセ一神教』であり、もうひとつはフェルディナン・セリーヌの小説『夜の果てへの旅』だ。二つとも20世紀の超問題作であるが、共通しているのは「負性」と「負性の反作用」を描いていることである。
クリステヴァはこの超問題作を「浄め」と「穢れ」が両義的にあらわれているテクスト、あるいは「魅力」と「嫌悪」が両義的にあらわれているテクストと捉え、そこから人間にひそむ裏腹な関係を問いただしていくという関心をもった。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1028.html

書影をあげたPouvoirs de l'horreur(邦題『恐怖の権力』)において、クリステヴァフロイトセリーヌを念頭に置いている。
この二人に共通するのは人間の負性を正面から見据え、聖なるものと穢れたもの、あるいは魅力あるものと汚らわしいものなどという、人間において相反する作用をなすものに関心を抱いた。
http://d.hatena.ne.jp/lain06/20080511

巧みな要約である。

何を問いただしたかというと、その問いは本書の副題の「アブジェクシオン詩論」に集約されている。本書は第1行目から最終行まで、アブジェクシオンを徹底的に問題にすることを貫いている。それ以外の問題は扱わない。アブジェクシオンが何を意味するかはこのあとすぐ説明するが、そこで検証されるのは、たとえば穢れの儀式(中略)クリステヴァはこれらがいずれもアブジェクシオンだと言っているのである。そして、このアブジェクシオンを問いただすことが「恐怖の権力」の正体をあきらかにする有効な方法になると考えたのだった。

abjectionアブジェクシオンとは人間の不浄なもの・穢れたものにかかわるありとあらゆるもの・ことを包含する。このabjectionを突き詰めていくことで恐怖の権力とは何かが明らかになる。

この辺りは些か削りすぎ、と言った印象を受ける。言っていることは変わらないが。

ひとまずアブジェクシオンとは「おぞましさ」という意味だと思われたい。「おぞましさ」にはむろん多くの意味があるし、いろいろなおぞましい候補がある。
ごく素朴な意味は、嫌いな食物、汚物、はきだめ、死体などに対する嫌悪感としてあらわれる、さまざまな生理的な経験にもとづいている「おぞましさ」である。
(中略)その嫌悪の理由がつきとめにくいときもある。(中略)
クリステヴァはこのような「おぞましさ」の根底にある作用をアブジェクシオン(abjection)と名付けた。たんなる嫌悪感ではなく、嫌悪しているにもかかわらず、その嫌悪が当人の感情や心に入ってくるぎりぎりのところで弾きとばされたり、隠されてしまうような、そういう「おぞましさ」がアブジェクシオンである。

aboectionを日本語で表せば嫌悪やおぞましさといって表現が近いだろう。それは可視的や感覚的に説明がつくこともあれば、生理的にわけが分からないこともある。これらある種あいまいな心情の根底にあるのがabjectionなのである。嫌悪感であるにもかかわらず、当人の心にこびりついて離れなかったり、しかし心の奥底に隠されて分からなかったりと、なんとも厄介な代物かもしれない。

この辺りも見事な要約であるが、薄い松岡正剛の文章がさらに薄く引き伸ばされた趣がある。味の無くなったガムを噛むような感覚であろうか。

アブジェクシオンという言葉はもともとはフランス語の"abject"から派生した言葉で、「分離するためにそこに投げ出した」という原義をもっている。そこから一般的には「放擲」とか「棄却」という意味となった。
クリステヴァはここに、あえて"abjet"という1字ちがいの造語を孕ませたのである。これは"abject"からクリステヴァが勝手に派生させた概念で、察する通り、"objet"とは微妙に裏腹の関係をもつ。すなわち"objet"(オブジェ)が「対象」をあらわすのに対して、"abjet"(アブジェ)は「いまだ対象になっていない」というニュアンスをもった。

abjectionの語源はフランス語のabjectで、これは放擲と訳される。大雑把に意味を述べると分離する・投げ出すことなのだが、クリステヴァはここからabjetという語を派生させた。abjetはabjectさらにはobject物体・対象とも相関を持つ語であり、いまだものの形になっていない・対象になっていないという含意を有する。

この辺りは少し頭のいい中学生ならできる要約であろう。例えば「放擲」と言う言葉をフランス語ができるlain先生は他の言葉に言い換えて誤魔化す事もできるのではないか、と我々門外漢は思う。だがlain先生はそうはされずそのままの言葉を使うと言う訳だ。

そうすると、このような"abjet"を含むアブジェクシォンは、二つの意味が相反して絡みあうことになっていく。ひとつは「禁忌しつつも魅惑される」という意味であり、もうひとつは「棄却する」という意味である。これらが二つながら孕む。ということは、アブジェクシオンとは、身に迫るおぞましいものを棄却しようとしている一方で、その棄却されたものが自分にとって実は身近なものであったという意味作用をもつとともに、それに関して自分の中をさらけだすこと自身をおぞましく思っているというニュアンスもつきまとうというような、そんな状態や作用をあらわすことになったのだった。
クリステヴァは、禁忌していたのに魅かれる作用が秘められている問題に注目したのである。避けているのに惹きつけられるもの、「浄め−穢れ」や「魅力−嫌悪」といった対比的で裏腹な関係がアンビバレントに襲ってくるようなもの、それをアブジェクシオンとよんだのである。さて、そのように見てみると、アブジェクシオンは必ずしも個人の生理的な基準によって対象化されたものだけでなく、そこには社会や歴史や民族や家庭が"abject"していたものもありうることになる。話は俄然、類的な様相をおびてくる。

すると、abjetを含むabjectionはおぞましいものを投げ捨てつつ、しかしそのおぞましいものは自分にとって近しいものであり、おぞましいものが自分の中にあり、またそれをさらさなければいけない自分自身をもおぞましく思っている……といったような、相反する心情の状態を表すことになる。つまり、聖なるものと穢れたものといったように、相反するものがアンビバレントに否応なく内包されている状態、それがabjectionであり、abjectionは個人だけでなく歴史や民族へと敷衍できる。さらに遡り、相反するものがいまだ派生せず形にならない状態、それがabjetだということになる。

この辺りは非常に難しい所なのであろう。lain先生の文章にもそのまま引き写したと思しき箇所が見つかる。これはどういうわけなのだろうか。

第895夜にやや詳しく書いておいたように、フロイトが『モーセ一神教』(中略)ユダヤ人という民族の起源にまつわるアブジェクシオンが、フロイトという個人の父親とのあいだに生じたかもしれないアブジェクシオンと強くつながりうる可能性(あるいは危険性)が暗示
(中略)『トーテムとタブー』で(中略)原初の父殺しがその後の社会の道徳や宗教をつくったという説である。フロイトはこの一連の動きに、はからずも父をめぐるアブジェクシォンを組みこんでいたのである。

クリステヴァが参照したフロイトを顧みるなら、『モーセ一神教』ではユダヤ民族の起源にabjection/abjetが適用され、『トーテムとタブー』では父性の期限にabjection/abjetが適用される。クリステヴァフロイトのこうした問題意識を引き合いにしつつ、abjection/abjetに恐怖の権力の正体を求めていく。 

ダラダラと書かれている部分がザッパりと綺麗に纏められている。
「期限」は「起源」の語気であろうか。続いてセリーヌの箇所はばっさりと削除されている。

それを掴むには、多少ともクリステヴァの生い立ちの履歴と彼女が提起しつづけた問題の遍歴を知っておいたほうがいい。いや、クリステヴァの思想遍歴そのものにアブジェクシオンの秘密が痛打されている。
(中略)
1965年に給費留学生としてパリに留学して、ルシアン・ゴルドマンやロラン・バルトセミネールに学んだ。(中略)最初からミハイル・バフチンの対話原理やポリフォニー理論にとりくんだ。

クリステヴァがabjectionへと到達した背景には、彼女の思想遍歴があるだろう。彼女は1965年にパリに留学後、ゴルドマンやバルトのセミネールに学び、テクスト理論の研究に当たった。そこで最初に参照したのがバフチンであり、対話原理やポリフォニーについて考察を深めていった。

ほぼ引き写しである。

現代思想のテクスト理論は、こうした書誌学的な問題からスタートしたのだが、そこに構造主義以前と以降における決定的な相違が生まれた。(中略)
ロラン・バルトの説明を(中略)われわれはつねに「テクストの前に立たされた意識」にすぎないか、「そのテクストと意識のあいだに立たされている存在意識」ということになるわけなのだ。
若きクリステヴァはこの見方を強調し、また拡張して、われわれ自身の存在にまつわる「間テクスト性」(intertextualit )という概念を提案した。インターテクスチュアリティである。
これは自立したテクスト相互間の関係のみならず、一連のテクストの内部で生み出される副次的なテクストの動向にも留意したもので、たとえば、あるテクストが歴史を記述しているとき、そのテクストには「歴史をそのように読んだ」という潜在的なテクスト性も浮上しているとも考えられるのだが、クリステヴァはこのような可能性があることをバフチンの研究から取り出して、この主テクストと副テクストともいうべきテクスト間に一種の構造が生成されてくるのではないかとも考えた。
このとき、一方のテクストを「ジェノテクスト」(生成するテクスト)、他方のテクストをフェノテクスト(現象するテクスト)と名付けることにした。また、この二つのテクストは相互に対話をしているのではないかと見た。クリステヴァ自身はこう書いている、「いかなるテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成され、テクストはすべてもうひとつのテクストの吸収と変形になっていく」。
これはかなり冒険的な見方だとうけとられたのだが、いまでは「テクストにおける相互編集性の発見」だったということになる。とりたてて格別のものではない。クリステヴァが「引用のモザイク」と言っているのはまさしく編集作用のことなのである。ここまではお膳立てにあたる。

構造主義以前のテクスト理論は書誌学的な色が強く、作者と読者ははっきりと区切られていた。しかし、恐らくはバルト以降にテクストが多次元化し、作者も読者もテクストという言語の群れの前または間に立たされた存在意識である、ということになった。クリステヴァはここからintertextuality間テクスト性という概念を見出し、テクストの間およびテクストの内部で作用が起こり、副次的なテクストが生み出される可能性をも見出した。これはバフチンから想起されたものでもあり、主テクストと副テクストとしてテクスト間の構造を規定する形になった。ここにジェノテクスト―フェノテクストという生成―現象の関係が生まれ、相互対話するテクストの網目が引用のモザイクを形成するという、クリステヴァならではのイメージが形成された。

中略するの憚れるぐらいに纏められているようだが、松岡個人の意見を一般する辺りは強弁ではなかろうか。

クリステヴァはこうしたテキスト理論を深めるとともに、記号学と心理学に深入りし、「サンボリック」と「セミオティック」ということを考えつづけ、(中略)「サンボリック」は生産物としての秩序のことを、「セミオティック」は生産物を生みだす生産そのものの秩序のことをいう。
クリステヴァ以前の記号学言語学や心理学では、記号や意味を生みだす秩序については、サンボリックなプロセスばかりが重視されていた。しかし、これはどうも片手落ちのようである。生まれていくものばかりが強調されすぎている。いっさいの象徴がそこに集中しすぎている。生んだものへの注目がない。さきほどのフロイト理論でいえば、暴虐な父を殺して子が成長していくプロセスばかりに光が当たっている。これでは、そこでの「負の父」と「大いなる母」とが描かれない。(中略)
(1)生成するもの(=生産物)
(2)生成するものを受けいれているもの(=コーラ)
(3)生成するものに似せて生じてきたもの(=モデル)

クリステヴァはテクスト理論からさらに心理学や記号学へと接近し、サンボリックとセミオティックという有名な概念を生み出すことになる。サンボリックとは生産されたものとしての秩序であり、セミオティックとは生産活動そのものの秩序のことだ。クリステヴァはサンボリックな側面のみだった記号学言語学セミオティックな側面を付加し、生み出すもの、つまり負性を背負った父母の存在を明らかにしたのである。さらにクリステヴァは生成について、

生産されるもの

生産物を受け入れる場(コーラ)

生産物に似せて作られたもの(モデル)

この辺りも要約である。何か勘違いをされているような部分もあるが。

セミオティックなのは(中略)「コーラ」(場)とよんでいた。これはきっと「母」ではないか。コーラは生成する場を用意する母なるものではないか。そうだとすると、これは次のように配当できるではないかというのが、次なるクリステヴァのアイディアだった。

(1)生成するもの(=生産物)=子
(2)生成するものを受けいれているもの(=コーラ)=母
(3)生成するものに似せて生じたもの(=モデル)=父


これはフロイトの理論の読み替えである。のちに流行した用語でいえば、脱構築だ。フロイトがサンボリックな父プロセス(生産物としての秩序)に加担しすぎたことに対する、母セミオティック(生産物を生みだす生産そのものの秩序)のほうからの逆襲である。

という三重の構造を見いだす。これらのうち、コーラとはセミオティックな、生成する場を用意するものであり。すなわち母である。一方、モデルとはサンボリックな、コーラに作用を及ぼすものであり、すなわち父である。すると、この関係は次のようにまとめられる。

生産物⇒子

コーラ⇒母

モデル⇒父

これはフロイトの理論をたくみに移し変えたものであり、フェミニズム的にいえばコーラ/母からのアプローチとなる。

この辺りは普通に要約であろう。

しかし1975年に出産を体験すると、自身の思想を新たな胚胎に向けて大きく組み直していったのである。それが『ポリローグ』(1977)であって、本書『恐怖の権力』(1980)だった。
この組み直しの中核となったのはあきらかに「母」である。それとともに「負の父」の役割をアブジェクシォンとして描出しきることだった。これでだいたいのことが見当ついたとおもうのだが、クリステヴァは「いまだ主体ならざる父」が「いまだ対象ならざる母」を棄却していたプロセスを明示化することによって、母なるものの奪還を画したのだった。
これ以降、クリステヴァは「想像的な父」というアブジェクシォンを伴わない父親像を想定しつつ(ソレルスのことかもしれない)、さらに深層意識の底辺を邁進して「母なる起源」の解明に向かっていく。
クリステヴァはジェノテクストそのものの発露に生きることを決意したようなのである。

最初、テクスト理論を主に研究していたクリステヴァは、自身の出産を機に大きく思想をフェミニズム的に転回していくことになる。その表れの一つが『恐怖の権力』なのである。
この思想転回の中心にはまぎれもない母がいる。そして、負性を負った父がabjectionとして描かれている。クリステヴァは父が母を投擲していた過程を暴きだし、母の復権を目指したのだ。この後、クリステヴァは胎児を含めた、母なるものの意識や身体の深層を目指して論を進め、母なる起源の探究に突き進んでいく。その根源にいたる探求の核となる概念の一つがabjetなのだと思う。

さて、全てが要約されている。
これが所謂「間テクスト」という奴であろうか。門外漢には分からない。だが一般市民がこれを見て言う事は分かっている。即ち「パクリ」であるということだ。