パクリのid:lain06 4

さて、佃煮である。

今日の佃煮は日本全国いたるところで、伝統的な日本特有な食べ物として親しまれています。
(中略)
佃煮は江戸時代、佃島にちなんで生まれた東京の地場名産品で、東京が佃煮の故郷なのです。
(中略)
長い歴史を通して、いつも大事な役割を果たしてきました。業界分けの全国グループでは煮豆や惣菜などの仲間とともに調理食品という大きな看板のなかに入り、すっかり生活にとけこんでいます。

佃煮が江戸の発祥であるといわれているのはご存知だろうか。今では日本全国で郷土食として親しまれている食べ物だが、もともとは佃島にちなんで生まれた江戸の地場名産品だった。佃煮は分類上、煮豆や惣菜などと共に調理食品の中にくくられており、流通する形になっている。
http://blog.livedoor.jp/lain6/archives/50957755.html

というように言葉を入れ替えるだけでなく巧みに上下の文章を切り貼りして、自分の文章であるかのように思わせておられる。

威勢のよさや新鮮さを感じさせる「江戸前」という言葉は、「江戸の前の海」を指しています。そこでとれた魚をすばやく活きの良いうちに食べることのできた江戸の人達は、新しくて、新鮮なことを「江戸前よ」と自慢したものです。江戸前というと、関東の人達は寿司を思い浮かべます。この江戸前寿司が流行り出したのは文化文政(1804〜29)の江戸町人文化が開化した頃からです。それまでは江戸の寿司も上方流の押し寿司でした。

江戸時代の佃島は、江戸湾における漁業の中心として発達した場所だった。そもそも「江戸前」という言葉は江戸の前の海という意味であり、海で取れた魚を新鮮に食べることが良しとされ、息のいい魚を「江戸前だ」といって、江戸時代はもてはやした。江戸前の寿司などはその典型といえる。上方流の押し寿司が握り寿司に変わったのは、ちょうど化政文化のころだった。
http://blog.livedoor.jp/lain6/archives/50957755.html

この辺りは見事としかいえないだろう。元の分が文化文政の町人文化となっている所を「化政文化」という教科書で習った用語に言い換えておられる。文章もlain先生独自のものへと変化している。

江戸時代の佃島は、江戸前の海で漁業をするのに大変に便利なところでした。この島の漁民が江戸前の小魚を煮て、佃煮とする話しは天正18年(1590年)徳川家康公が江戸へ移り住むようになった頃からといいますから、400年以上もの歴史があるのです。
 
佃漁民ゆかりの地  佃島の漁師さんの故郷は関西の佃村、現在の大阪府西淀川区佃です。ではなぜそこの漁師さん達が、江戸に移り住み、特別の漁業権を持つようになったかと申しますと、江戸幕府の祖・徳川家康公が生涯忘れることのできない苦難に遭遇した時、佃の漁民がこぞって家康公を助けてきたからなのです。家康公と佃村の人達の物語は逸話として伝えられています。次の佃煮歴史物語は、武田が物語として発表したものです。
(中略)
以来、家康の佃村の人達への信任は、特別強いものになったのです。その後大阪の陣に備えて、佃村の漁民に大名屋敷の台所へ出入りのできる特権を与え、大阪方の動向を探る隠密の役割をつとめたという伝えもあります。

佃島の漁民は江戸前の小魚を昔から佃煮にしていて、徳川家康が江戸に移った前後からその調理法は始まったらしい。もともと佃島の漁師たちは大阪の佃に住んでいたのだが、それが江戸に移ってきた。佃の漁民たちは徳川家康が苦難の状況にあったとき、何度も助けてきたという話があって、彼らが徳川幕府から特別な漁業権を与えられていたのは、このつながりのためだとされている。佃島の漁民たちは大名屋敷に出入りする特別な権限を持っていたという。
http://blog.livedoor.jp/lain6/archives/50957755.html

ここも見事に要約しておられる。少し文章のつながりを変えたほうが分かりやすいのではないかと思われる箇所もあるが。

話は天正10年・1582年6月4日に遡ります。明智光秀の謀反によって織田信長が本能寺で倒れたのが、その2日前6月2日の早朝。その時、家康の一行はわずかな手勢とともに堺の地いました。見つかれば、信長の盟友である家康が無事なわけがありません。家康は岡崎城へもどることができるか狼狽しました。その時、いち早く堺の商人・茶屋四郎次郎からの知らせで、直接の退路が阻まれていることを知らされた一行は、異変を知らぬふりをして住吉神社参拝というふれこみで、逆の方向へ迂回しての脱出奇策をとりました。

 一行が、今の大阪市住吉区神崎川にさしかかった時、渡る舟がなかったので焦りました。その時、近くの佃村の庄屋・森孫右衛門は、手持ちの漁船と不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食・兵糧として用意しました。気候の悪い時期に人里離れた海路や山道を通って必死に脱出しなければならない一行にとって、佃煮の始まりともいえる佃村の人達から受けた小魚煮は、日持ちも良く、体力維持にも素晴らしい効果を発揮しました。

織田信長明智光秀の謀反によって討ち取られたとき、家康の一行はわずかな供とともに境に向かった。このとき、岡崎城へ戻るための退路を絶たれていた家康一行は、住吉神社付近を通って逆方向へ脱出するという奇策を図った。このとき、佃の漁民たちが家康に船を提供し、非常時のために備蓄していた道中食・兵糧の小魚煮を家康一行に提供した。小魚煮は日持ちがよく、家康たちの体力維持に大きな力を発揮した。どうやら、これが佃煮のもとになったらしい。
http://blog.livedoor.jp/lain6/archives/50957755.html

「堺」が「境」になっていることは何を示すのか? ちゃんと日本史を学んだものなら分かる通り、本能寺の変が起こった時、家康は「堺」に居たのである。それが何故「向かった」になるのだろうか? 恐らく「その時、家康の一行はわずかな手勢とともに堺の地いました。」という原文にある誤字を「堺の地に向かいました。」と勘違いして引き写されたものだと思われる。
何れにせよ、lain先生が大した傑物である事に疑問の余地はない。我々凡人ならば何かを書こうというときには、複数の書物を読み、面倒な時は引用すら導入して、文章を拵え上げる。それをlain先生は検索すればすぐに出てくるサイトから要約して引き写されるのである。恐らくlain先生とて書物などから文章を取ってこられることもあるのだろう。だがその場合も何々から引用・要約とは書かず、あくまで自分の文章として発表されるのである。大した先生ではないか。lain先生の文章をレポート用に剽窃する学生諸君は是非見習いたいものである。