海燕さんが「面白かった、読め」という必要はない

個人サイトで「つまらなかった」と書く必要はない。 - Something Orange
なぜならば、海燕さんは唯一神だからだ。この世に存在する、いや、一年の内に刊行される、

約7万冊の本

のどれ一つとして、海燕さんの「オレンジの何か」に腹蔵される馥郁たる芳香を放つ文章と思想に叶う筈はないからである。

役に立つでしょうか?(中略)あまり役に立たないのではないでしょうか。

誰かの役に立つ=即ち奉仕である。こう言う風に雑記を綴るような事を海燕さんは下劣極まりないものとして捉えられる。なぜならば海燕さんにとって、何一つ自分で想像出来ないものは愚物だからだ。

真にすぐれた本

を書く事は確かに才気を必要とするだろう。だが、

もちろん、どう書こうと勝手

と、海燕さんは述べられる。これは書評について語っている箇所だが、もちろん書物についても代替が効く。文学とは私怨です、と言ったのは誰であっただろうか。文学だけではなく、あらゆる書物は私怨なのである。だが海燕さんはそうではないと仰られる。

失敗した場合の代償は大きい

海燕さんはそのようなことは割に合わない、と言っておられるのである。「役に立つ」「代償」等はもう古い、僕はそんな事はしませんよ、と仰られているのである。いかにも海燕さんらしい意見であろう。
だが、海燕さんと言っても、迷いは持つらしい。

傑作と凡作を比べればやっぱり傑作のほうが少ない

もう既に海燕さんは、己が唯一神であることを認識されているはずだ、にも関わらず今だ「傑作」「凡作」等と書物を比べようとなさる。もはや海燕さんの前では、「傑作」「凡作」等と言う観念は存在しない。全てが海燕に劣るもの、劣らぬものに分けられるのであり、劣らぬものは海燕さん自身しかありえない。当然「役に立つ」「代償」等と言った言葉はもう必要ないのである。誰が努力し様とも、海燕さんに勝てるものはいない。海燕さんが書評を書かれるのは、そういった真実からひたすら逃避されようとなさるからだ。ここに衆生海燕さんの「大いなる苦悩」と「慈悲」を見る。

集団レビューサイトにはない、個人レビューサイトの利点とは何か? それは、そのサイトの運営者の優れた「目」に尽きるでしょう。

最早海燕さんの中では「集団」「個人」だのといったものも存在しない。海燕さんの世界観に於いては、「非・海燕」か「海燕」かのどちらかであり、さらに細分化して分けるとすれば「僕の手がついたもの」「僕の手がついていないもの」「僕に反対するもの」「僕に反対しているが、僕自体は興味ないし無視する事にしているもの」くらいだ。だが実を言えば、「非・海燕」等は笑止千番なことだろう。反対し様が反対しまいが、全ては海燕さんに還元されてしまうのである。その様な事は土台不可能なのである。だが、海燕さんは、

とにかくうっぷんを晴らしたくて仕方がない

と言う人間としての最低の領域にも目を注いでしまうのである。普通の高貴気取りならば鼻を摘んで通り過ぎたくなる所にも鼻を突っ込んでしまう。海燕さんとしては救済の手を差し伸べたくてたまらないのであろう。だが、世の中にはどうしても救済する余地のない連中は存在している。そう言う連中に救済の手を差し伸べる必要性は全く感じないのだ。
もちろんそれと同じ事だが、海燕さんが本を読んで「読めよ」等と言う必要性も感じないのである。海燕さんの雑記を見ている衆生は全て海燕さんに劣る、そう言う連中にもう、

いやもう、いいから読めって。絶対おもしろいから。
SF史上屈指の傑作ここにあり。『虎よ、虎よ!』 - Something Orange

等と言う必要はないのではないか。ベスターもカルヴィーノドストエフスキーも、確かに見方によれば偉大な作家だが、それら全ては所詮海燕さんが書き物を始められるまでの長い前座にしか過ぎないではないか。それなのにいちいち取り上げて持ち上げようとなされる。ここに大いなる「慈悲」が存在するのだ。
海燕さんはどこまでも偉大な方である。海燕さんを越えるもの書きはこれまでも現れなかったし、これからも現れる事はないであろう、恐らく。