海燕さんの偉大さについて。

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さて、何故このように古い日記を出してきて今更このように書き始めるのかといえば一重に海燕さんの偉大さを喧伝したいが為である。何故なれば、彼はネット書評の星だからだ。例えば最新記事であらせられる、
2008-03-20 
を見て行くとしよう。ここで海燕さんは名前を言わぬが一人の萌畜を俎上に上げられる。敢えて名前は上げぬものの、この萌畜ときたら酷いもので、書く内容は端からスカスカなくせに萌畜雑誌ライターとして活躍をしているつもりになっているようだ。そこにこの海燕さんと言う方はその文章を引用されて嘲笑われておられるのである。勿論昔から引用はされているがそれが全て嘲笑う為である事を知るものは俺くらいな物であろう。

確かに「少女」「美少女」という言葉はずるいもので、小説の中に出てくるだけで「ああ、多分かわいいんだろうな」という魔力があります。

マンガでの表現になると、そこがちょっと変わってきます。なんせ絵がある。

しかし、多くの作家さんが描いてきた「美少女とされる女の子」は確かに、あらゆる要素をもって「かわいい」とされるのが楽しいところです。だって、美少女、見たいじゃん!

先ず萌畜の言葉、それに対する海燕さんの第一声、

見たい見たい。

から考察していきたい。先ず人は何をするときに「見たい」と欲するのであろうか? これは万古不変の謎である。美少女は俺とても好きだ、だがそれを眺め回す時に、一種の性欲を感じざるを得なくなる訳だ。萌畜は「マンガでの表現になると、そこがちょっと変わってきます。」と、漫画と小説を別個のものとして捉えている、だがそれは本当に是とするに足りるか、というところに、海燕さんの、

見たい見たい。

が存在するのである。見たいを二つ重ねる事により、始めに置いた所の、

見たい

は変質するのである。見たいは既に前の「見たい」を打ち消すものとして存在するのである。例え同じ言葉であっても、二回繰り返される事によりそれは意味を変ずる。例えばハンバート・ハンバートの一度目のハンバートが、決して二度目のハンバートとは異なるように。
ではその謎を引き続き追っていきたい。

ただ、いくら「「少女」「美少女」という言葉はずるいもので、小説の中に出てくるだけで「ああ、多分かわいいんだろうな」という魔力があります」とはいっても、それは巧い作家の話。

「いくら」は当然「イクラ」の事である。「ただ」とは「タダ」の事である。
ここで萌畜の文章を引用するふりをして既に自分の文脈で書きかえられている海燕さんにとっては「少女」が連城三紀彦の映画化もされた作品であり、「美少女」が暗に近頃復刊された吉行淳之介の作品であることを暗示しているぐらいは読み取らねばならないだろう。「タダのイクラ」「連城」「吉行」この一見普通の何でもないことを綴ったかに見える一見稚拙な文章の中に、いかなる暗喩が隠されているのであろうか。先ず吉行淳之介の父親のエイスケはダダイストである。「タダ」に「ダダ」が引っ掛けられているのは当然であると思われる。
では海燕さんのオリジナルの文章に表れる、

巧い作家

とは一体誰を差すのであろうか? 連城はたまた吉行か? これは間違いである。答えから言ってしまえば、これは海燕さんのことである。「書評」しか書いた筈がない海燕さんが、一体どうして「作家」足り得るのであろうか。これを語るのは面倒臭い事だが、出来るだけ省略して書くならば、先ずダダを貫くシュルレアリスムの文脈を伝って、即ち西欧より海燕さんを眺め渡さなければならない。

個人の意識よりも、無意識や集団の意識(中略)繊細さ、色彩の特異性(中略)
シュルレアリスム - Wikipedia

読者は既にご存知であろうが、「集団の意識」の体現者は海燕さんである。もはや俺のような小物が申し上げるまでもなく、海燕さんはネット書評界全体の思想の統括者である。そして、その文章に秘めた、繊細さと色彩の特異性(ゲーテを引くまでもなく、海燕さんの手記のタイトルに含まれるオレンジが既に地中海の女神の恩恵を蒙っている事は言う迄もなかろう)はどのような鬼神をも、魅せるものである。そしてさらに海燕さんは偉大なる人格者でもあらせられる。



さて、些か脱線してしまったが海燕さんが萌畜をどれほど心底軽蔑されているか、という事に戻って書いていきたい。

未熟な作家が書くと、ただ言葉が上滑りするだけで、少しもかわいく思えてなくなってしまう。

極論かもしれませんが、小説の場合、いくら華麗な形容詞を用いて美少女を表現してもあまり意味がないと思うんですね。

悪い例として挙げるのは恐縮ですが、先日読み上げた『とある飛空士への追憶』では、メインヒロインの美貌が言葉を尽くして賛美されていました。

安易な読者は「未熟な作家」=萌畜の事だろうと思われるのであろう。だがそれは大いなる間違いである。正解は「未熟な」のみが萌畜を差すのであり「作家」と言うのは勿論海燕さんのことなのである。ディープな海燕ファンにとっては「作家」という言葉を名乗っていいのは有史より海燕さんだけであり、他の者はそれの足元にも及ばないのである。
以下適当に書くが、「ただ言葉」の「ただ」も矢張り「タダ」が「ダダ」であり、「フリーセックス」を示唆し「言葉」が「桂言葉」である事に間違いはありえない。「上滑り」には潤滑油を用いた騎乗位セックスぐらいの意味が込められていることぐらい察知しなければならない。全てヤンデレ好き(当然日記より数学的に割り出せる事象である)の海燕さんの願望であろう。
「極論」とは即ち極(海燕さん)の論の事で「小説の場合」は「海燕さんの読んだ、海燕さんには及ばないが、海燕さんが推しているのだから、読まなければならないし、読まないものは海燕さんファンではありえない小説」の「場合」即ち「海燕さんの日記」の事であろう。「いくら」が頻出するがこれは海燕さんの好物である「イクラ」である事は間違いない。海燕さんが恐れ多くもアフィリエイトで儲けた金は、全て「イクラ」を買うために使われるのである。
「華麗な形容詞」まさに海燕さんの人生の事である。これに溢れていない海燕さんは最早海燕では在り得ない。だが「意味がない」と仰られる辺り、海燕さんは「人生の阿呆」としての認識を持っておられるのではあるまいか。だがそのようなことは心配される必要はないと言っておきたい。悪いのは萌畜であり、海燕さんは神である。以下文章が続くが語るまでもないだろう。偉大なる兄弟海燕に幸いあれ!!