動物を飼う子供

高原英理が、その著書「少女領域」の、冒頭に書いていたことなのだが、彼の友人で作家で、女性で、結婚していて、子供を作ってない人がいる。その人に対して、ある男が、何で子供を産まないのか、子供を産めば作風が変るよ。と言うようなことをいったそうだ。それをマクラにして、少女が主人公の小説にたいして批評を進めていくわけだが、高原は、その発言には憤りを感じていると、発言している。確かに、俺もはっきり言ってこの男はむかつく。というか、愚鈍だと思う。人間の私生活に関することを、よくもまぁ、いけしゃあしゃあと言えたものだ。世の中にはタブーというものがあるのだ、それを弁えないこいつは、本当に馬鹿としか言えないわけだが。軽くかわしてもらったことを感謝するがいい、でも、女性作家に、といっても、女性作家と書いても差別があるような気がする、そこで、作家とかく。
しかしまぁ、罵るのも、これぐらいにしておいて、ひるがえって考えってみるならば、この男も、ある一つの見方からしたら、もしかしたら、正しい考えの人なのかもしれない、それは、男というものは大体動物的なのである、それは自分を含めての話だが、つまり、男性は、はっきり言って、女性を動物としか見ていないのではないか、と、往々にして思うのだ。
たしか、井上章一が書いていたことだったと思うが、もてない男ほど、フェミニズムに走る、といっていたのを思い出す。それはなぜか、結局、男というものは、自分の欲望しか考えない生物なのである、女を征服したい、これが本心なのではあるまいか、例えば、少々嫌になられる方もいるかもしれないが、電車の中で、見知らぬ男にやられたことを、性行為の最中に、それも双方乗気の時に、恋人にやられても、まず何も言わないだろう、いや、これは一般論をいっているのでなくて、俺の思い込みなので、もしその辺りに意見のある方は、ご教示願いたい所だが、その恋人の手を掴えて、痴漢、とか止めてとかは言わないだろう、かりにいったとしても、本心から言う人は少ないだろう。まぁこんなことを考えるから、俺はよく人から変態と言われるわけだが、実はこれは重要なことである。人は場所を弁えず、糞尿や脱糞をするわけないのである、例えば、ティル・オレインシュピーゲルのように、盗みにはいった先で脱糞をするというのは、いわば、社会にたいする反抗のイデオロギーではないか。ちょいと齧ったバタイユを引くまでもなく、男と女は、性行為をするときは、室内、或いは、人のいない所に閉じこもってやる、普通は。
そして、双方乗気のときに、性行為をやるというのは、当然、こういう規律の上でやっているのである、そして俺は、こういう、暗黙の規律、普通、小学や中学、では教えないであろうことを、何時の間にか、覚えさせられている。こういう規律を定めたのは、ズバリ、男であると思うわけだ。そして何時の間にか脳味噌に刷り込まれているから、逆らうことが出来ない、というか疑うことを考えようともしない。結局、密室で男と女がいれば、男の方が強いのは当たり前なのだ、楳図かずおの「漂流教室」で、女番長という、これまた色の濃いキャラクターが出てくるのだが、小学生ぐらいの時は、女の方が男よりも強いとのたまった如く、子供の時は女の方が、強いが、だんだん年を経る毎に、男の方は筋肉が発達し、女の方は、ある程度の体型で成長が止まってしまう。そして、じきにそんなことは忘れてしまうわけだ。俺は、多分、そんなよわっちい男が、今まで強かった女を、征服するという下克上的な展開に喜びを、本人は絶対に意識しないのだが、持っていると思うのである。
双方合意の上で、やっているわけだから、いいのではないかと言われるかもしれない、こっちの勝手だろ。といわれるかもしれない、しかし、それでは、真の男女平等にはならないような気がする。真の男女平等、というのは、まぁ、なかなかに難しいような気がする。
現に太宰の「男女同権」の主人公を、引くまでもなく、女に支配される男もいるわけではあるけれど。
まぁ、ほんとはそんなことは、はっきり言って、どうでもいいのである。結局、人間が人間であると思い込んでしまっているのは、倣岸不遜なことなのだ、人間性なんて、ヒューマニズムなんて実は要らないのである。
そう考えると、すべてが、どうでもいいことになりはしないか、人間は常に発情している生物であり、その時間を、考えるといった、行為に使っているから、何とか欲望を抑えていられる、と、確か平岡篤頼が言っていたが、それじゃぁ、いっそのこと、その発情期を一定にしたらどうだろうか、つまり、手術を施すのだ、そして、発情期を一定にすればよいのだ。モロー博士見たく。といって、俺は格別医者でもないから、何も分からないのだが。
ま、ここら辺で打ちとめにしておく、結局、俺は読書家でもないから、全部間違いであろう、しかし間違いでも書くのだ、何故って、人間性は信じちゃいないことだけは確かだから、実は、文字を書くことを、いや、最近では打つか、俺は、非人間的行為だと思っていたりする。