kagami(ねこねこ)さんの発言について
ねこねこブログ - livedoor Blog(ブログ)
一読して貰えれば直ぐに分かるが、少し様子がおかしい。
他の方によると、
kagami氏ははてなのキチガイ達に殺されてしまうのか
http://d.hatena.ne.jp/dxdxdx/20080921
らしい。だがよく読めばそうではない、という事実が浮かび上がってくるのではなかろうか。
確かに旧id:kagami現ねこねこさんは自分が殺されると書いておられる。
このまま加野瀬未友さんらに僕は完全に殺されます。
事実を事実とするためにはまず証拠が要る。一応あるのではあるが……。
ここまでくると清々しい - MOHI-FACT - モヒカン族
である。とりあえず読んで欲しい。ここには殺意は見えない。もう少しねこねこさん自身の文章を引用してみよう。
ねこねこさんに習い、引用元をいちいちあげる事はしない。だが読者は(読者がいるとすればだが)実際にサイトの方に出向いて真実を確認して欲しいと願うのみである。
加野瀬未友という人(オタク業界で非常に著名な編集関係・ライターの人だそうです)を中心に複数から一斉攻撃されてて
(中略)
加野瀬未友という人が、複数の人々使って先日からまた凄い酷い嫌がらせを再開して、
(中略)
僕はまた嫌がらせしているのを昨日偶然見てしまって、
(中略)
加野瀬未友という人や東大の人たちから酷い傷つくことが書かれて、
この間、ねこねこさんはその「嫌がらせ」がどこで行われたのか一言も示そうとしていない。それが分かるのはこの次のエントリ以降である。
一番ひどいことを書いているのは有村悠さんですが「うひゃひゃひゃひゃ。転向したやつはたいてい急進派になってめっちゃ抑圧的に振舞うんだぜ」とか「措置入院させろ」とか書いています。でもやり方が凄く狡猾なのが、それがまず加野瀬未友さんが僕に対する嘲笑的な悪意ある文章を書いて、それの補足として、FTTHさんが、「右行って失敗したら左行くなんてのは良くあること。」と書いて、有村悠さんの上記のメッセージを紹介しているんですね。
ここからブックマークのことを言っているのであるな、と何となく分かる。
加野瀬未友さんがタイミング(9/16)を見計らって9/16に集団虐め殺しの舞台を作って、そこで9/16から集中的に加野瀬未友さんやETTHさんや有村悠さんに悪意をぶつけてこられるようになって
(中略)
加野瀬未友さん・FTTHさん・有村悠さんの悪意が9/16から僕に対して急激に集中しているのは、どうか時系列を見てください。時系列的に複数の他者の悪意が急激に集中する偶然の可能性は限りなく低いです。でも時系列では確かな証拠になりません。だからもう殺されるしかないんです。なぜいきなり9/16に加野瀬未友さんが虐め殺しの舞台を作って、そしてその時(9/16)に有村悠さんが突然「うひゃひゃ転向者は抑圧者」「措置入院させろ」とか書き始めて、それをFTTHさんが、加野瀬未友さんが作った9/16に作った虐め殺しの舞台でそれを有村さんのメッセージとして紹介するという、急激な悪意が時系列で集中していることをどうか考えてください。こういった悪意の集中が超短期間に偶発的に起こる可能性は、意図的でない限り、限りなく低いです。しかも間にFTTHさんを挟むことで、有村悠さんは責任を完全に回避することができます
ここから、先程リンクした、
ここまでくると清々しい - MOHI-FACT - モヒカン族
とそのブックマークをさしていると分かる。理由は、これ以外に「9/16」に書かれたねこねこさんを槍玉に挙げる加野瀬さんの文章は見つからないからである。勿論ネットの事であるし、どこで何を書かれていてもおかしくはないが、少なくとも俺が捜した範囲においては見つからなかった。
「右行って失敗したら左行くなんてのは良くあること。」
というFTTHさんのコメントが加野瀬さんの記事のブックマークのコメントにあることから考えても、
虐め殺しの舞台
とは、加野瀬さんの記事とそのブックマークである可能性はきわめて高い。
ここからはやや主観的な意見になるが、とてもねこねこさんを集団で苛め殺そうとしている発言には見えない。どのように思考を働かせても、「事実を指摘した」と言う表現が一番適切であると分かる。まさかねこねこさんは事実を理解できないとでも言うのだろうか。
ねこねこさんが嘗てと全く違う意見を書いていることは事実であり、それを加野瀬さんは指摘しただけに過ぎないだろう。それに誹謗中傷を加えている訳ではない。どこからもこれらの文章から誹謗中傷は読めないのである。
続いて、
今回のことも、加野瀬未友さんは09月05日に書いたエントリのことをいきなり9月5日に瞬時に一番最初に瞬時に取り上げられ、そのせいで政治的なごたごたに巻き込まれ麻生議員支持派から沢山バッシングを受けました。加野瀬未友さんはそれ以外のエントリは一切取り上げません。常に一番弱いところ、人々の賛同を得られないような文章をターゲットとして狙ってきます。でも、僕は、これを我慢して耐えれば終わると思っていました。僕が甘かったです。加野瀬未友さんらはその人が病気になったり仕事を失ったりしても決して満足せず死ぬまで徹底的に追い詰める人々だったということが今回分かりました。
加野瀬未友さんらのブログ潰しはまずターゲットの一番弱い、ウィークポイントとなる文章を加野瀬未友さんらが潰すターゲットが書く(もしくは昔書いている)とき、それを瞬時に取り上げて、嫌がらせの基点を作ります。9/5はただの土台だったんです。それが見抜けない僕が馬鹿でした。本当はそこでブログを全部辞めるべきでネットから逃げるべきでした。でも僕は加野瀬未友さんらがどこまで深い悪意を持って人々を傷つける人か、全く分かっていませんでした。
とある。
はてなブックマーク - ねこねこブログ : ドキュメンタリー映画「ベルリン・フィルと第三帝国 ドイツ帝国オーケストラ」を観ました。ショックでした。 - livedoor Blog(ブログ)
のブックマークを指していると分かる。
麻生議員支持派
と言うからには麻生議員を支持する発言を捜さなければならない。だが見たところここには麻生議員を支持を表明するコメントはない。寧ろ批判意見も多い。そして中立乃至は記事自体に対する批判である。
バッシング [bashing]
激しく非難・攻撃すること。
バッシングではなく、どのコメントも批判と言える部類のものであろう。これも主観的であるが。と言うよりここで書かれている程度の反論を受け付けない(無視するかどうかは自己裁量であろうが、一つ一つのコメントを自体をバッシングと一括りにしてしまう辺りはどうもおかしい)のであればネットはやるべきではないのではないだろうか。
事実貧困に喘いでいると発言されているし、それならば電気代を食うネットは止めた方がいい。アフィリエイトの収入などは雀の涙が普通であるからして。
日本残酷物語をひきあいに出しているのもおかしい。何故なればあれは百年前の話だからだ。
と言うようにおかしいところを上げていけばきりがないので、ここは海燕さんに解決を願うとしよう。
最新記事へとリンクを貼っておく。
2008-09-23
やはりカイエニズムは存在した――海燕さん座談会閲覧記1
http://www.lingr.com/room/somethingorange/
全てはタイタニックより始まる。最早ここで言う「タイタニック」はその音を失して、海燕さんの存在を一層強化し色付けるものでしか過ぎないというのに、全ての始まりにこの単語を置くということで座談会の開始をアピールしている事になるのである。
西鶴 テレビは久しく見ていないです。爆笑問題の日本の教養以外は。
海燕 あれは良い番組ですね。
西鶴 面白いですよね。あり得ない質問を太田がしてくれる。
単なる相槌を打つようで、その存在をめり込ませている。もちろん爆笑問題をである。海燕さんと言うフィルターを介してしか爆笑問題などは存在しえず、「良い番組」などというものもまた存在し得ない。海燕さんが誉め認定する事によって、そのレゾンデートルを与えられるのである。
ここで言う「太田」は単なる記号にしか過ぎず、ここで示唆されていることは海燕さんのことである。海燕さんがその多大な饒舌をもって一世を風靡した事はその道の方なら誰でもご存知のことであろう。海燕さんによって語られる話は全て自己の置き換えに過ぎず、自己が評価した物に投影される。そしてその投影された自己が対象物にとっての真実へと変貌するのである。
だが、海燕さんは最近調子がお悪いようだ。
海燕 最近、日記もあまり更新していません。
西鶴 なんか、意図されない読み方をされると、更新意欲が下がりますよね。
海燕 最近下がりっぱなしです。
これは海燕さんの雑記がどれほど巷の人に影響を与えるかということを明瞭に示している。海燕さんが下がれば皆が下がらねばならず、意図されざる読み方をする必要はないのだ。海燕さん自身は二面性を持つという事を認められているようである。これは海燕さんが何度も繰り返される事である。それはこの座談会でも明らかにされる。
海燕 ぼくはわりとひき裂かれているんですよね。いろんなおもしろさがあっていいという考え方と、やっぱり良し悪しがあるだろうという考え方と。
だがそれは海燕さんだけのことであり、他の単なる衆生は一切考える必要は無い、と言う訳だ。海燕さんが文章に込めた一つの意味を邪推して曲解するのは断じて許されざる事である。これは海燕さんとは別人の発言であるが、模範的カイエニズムの徒だと言わねばならないだろう。
海燕 ああいうのどうでもいいし。
不毛な言い争いについて海燕さんが下された一言である。海燕さんにとって見れば、すべては「どうでもいい」ものなのである。恐れ多くも代弁するなら、「それなのにぼくは構ってやっているでしょ、だから何かお礼を下さい」とでも言う所だろうか。当然ながらこれは海燕さんしか言ってはならない言葉であり、カイエニズムの真髄でもある。
海燕 ぼくは最近何をやるにも気力がないです。 小説もあんまり読んでいないしなあ。だからネタがない。更新頻度も落ちる一方です。
烏蛇 ネタがない、ってのはなぁ。
海燕 まあ、ネタがないものを無理に更新してもつまらないし。
烏蛇 書きたいことがあって更新するのが常道だと思いますし。
海燕 そりゃそうなんですけどね。あと、まあ、サイトが大きくなりすぎたってのもある。
ここで海燕さんが語る「サイト」と言うのはもっと大きなものととっても良い。海燕さんの認識が及ぶ、あるいは及ばぬ所のすべてが、「サイト」であると言うのである。何処までも大きくなりつづける世界に明らかに海燕さんは飽きれ返っているのである。対応出来ないと言う事は決してなかろう、だが海燕さんの神託を守ろうとせず、叛逆しつづける不貞の輩は何時までも存在しつづける。海燕さんの雑記が停止しては、この世界はとんでもない事になると断言せねばならない。カイエニズムは存在せねばならぬのだ。
カイエニズムとは海燕さん以外には完全に使いこなす事が出来ないものである。どれだけ熱心なカイエニズムの徒であろうと、海燕さんの代わりにはけしてならない。
海燕 ファンタグレープ。
最後に冒頭提示されたタイタニックが、座談会中、海燕さんが財布を探しながら、購入したファンタグレープと見事にかみ合うこの一文を引いておきたい。海燕さんは既にこの段階で、カイエニズムを張り巡らされているのである。即ち「ファンタグレープの海に沈み行くタイタニックを見るぼくはそこに感情移入をしているのだ、だから皆感動しなさい」ということである。
海燕さんは文学(でもある)。
「「つまらない」と書いてはいけない啓蒙運動」は実在しません。 - Something Orange
書いてはいけないとはいっていっていないじゃん。
ここで前項で書いた、
を思い起こしていただきたい。今回はそれよりもさらに高度な技法が使われているのである。
いっていっていない
という用法は本来の日本文学の韻律から外れている。だが、ラテンアメリカ文学として見ればどうだろうか。
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ラテンアメリカ文学から影響を受けたという奔放な文体と衝撃的な展開
桜庭一樹転生。 - Something Orange
至極当然の事ながら、海燕さんはこれらの作家より上位に位置する事は言うまでもない。その様な事は海燕さんも、とっくの昔に自認しておられることである。
ラテンアメリカ文学の巨匠なんていってもそんなものです。(中略)世界文学なんていってもね、実態はこんな感じですよ。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20060527/p4
ボルヘス、マルケス何するものぞ
■ - Something Orange
何度も言っているとおり、海燕さんは唯一神である。たかだかラテンアメリカの作家が束になって掛かってきても叶う訳はない。事実、
書いてはいけないとはいっていっていないじゃん。
この文章だけで殆どの作家を凌駕してしまっているのである。有史以来、数多の作家たちが言葉で積み上げてきたバベルの塔を、海燕さんはたったの一行で崩落させる事に成功しているのである。まして、海燕さんの得意分野は文学だけではない。それこそ「オレンジの何か」内を検索して貰えば分かるように、森羅万象、ありとあらゆる書物の中から、これだけはというエッセンス(それがどれだけ素晴らしいものであったとしても、海燕さんに叶う訳がないのだが)のみを選び出す賢明さは、最早神の域すら越えていると言っても過言ではない。早い話が海燕さんが取り上げない書物は読む価値もない。取り上げた本とて海燕さんの存在を超えるものはない。何を前回を同じことをと思われるかもしれないが、真実は必ず一つだけである。その一つだけを押えれば、世界の仕組みは解き明かされるのである。
主張しています。
海燕さんに主張などは必要ない。海燕さんの口にした事は全て真実だからである。
書いていません
海燕さんが書いていないことも理解する賢明さが、衆生には必要なのである。書いていることしか読み取れない、と言う事は甚だしく拙い。書かれてあるだけに囚われていては、分からないこともあるのである。
Amazonだろうが個人サイトだろうが、「つまらなかった」と書きたければ書いても良いと思います。しかし、そう書かなければいけない必要性があるとは思いません。
書く、と言う事は責任の問われる事でもあれば、また好き勝手にどうでも良いようにできるものでもあるという事実を海燕さんは既に看破されているのである。物事は二面性どころか複面性を持ち、複面性を持つこと自体がただ一つの真実であると言う事を海燕さんは理解されているという事になる。
「ぼく」は一人じゃないと思うんですよ。複数の相互に矛盾した人格が存在して、せめぎあっている。(中略)人間って、多かれ少なかれその種の矛盾を抱えているのではないでしょうか。だからこそ「あいつはこういう奴だ」なんて簡単に決めつけられない。だから人間はおもしろい。
役立たずなものほどおもしろい。 - Something Orange
海燕さんが「面白かった、読め」という必要はない
個人サイトで「つまらなかった」と書く必要はない。 - Something Orange
なぜならば、海燕さんは唯一神だからだ。この世に存在する、いや、一年の内に刊行される、
約7万冊の本
のどれ一つとして、海燕さんの「オレンジの何か」に腹蔵される馥郁たる芳香を放つ文章と思想に叶う筈はないからである。
役に立つでしょうか?(中略)あまり役に立たないのではないでしょうか。
誰かの役に立つ=即ち奉仕である。こう言う風に雑記を綴るような事を海燕さんは下劣極まりないものとして捉えられる。なぜならば海燕さんにとって、何一つ自分で想像出来ないものは愚物だからだ。
真にすぐれた本
を書く事は確かに才気を必要とするだろう。だが、
もちろん、どう書こうと勝手
と、海燕さんは述べられる。これは書評について語っている箇所だが、もちろん書物についても代替が効く。文学とは私怨です、と言ったのは誰であっただろうか。文学だけではなく、あらゆる書物は私怨なのである。だが海燕さんはそうではないと仰られる。
失敗した場合の代償は大きい
海燕さんはそのようなことは割に合わない、と言っておられるのである。「役に立つ」「代償」等はもう古い、僕はそんな事はしませんよ、と仰られているのである。いかにも海燕さんらしい意見であろう。
だが、海燕さんと言っても、迷いは持つらしい。
傑作と凡作を比べればやっぱり傑作のほうが少ない
もう既に海燕さんは、己が唯一神であることを認識されているはずだ、にも関わらず今だ「傑作」「凡作」等と書物を比べようとなさる。もはや海燕さんの前では、「傑作」「凡作」等と言う観念は存在しない。全てが海燕に劣るもの、劣らぬものに分けられるのであり、劣らぬものは海燕さん自身しかありえない。当然「役に立つ」「代償」等と言った言葉はもう必要ないのである。誰が努力し様とも、海燕さんに勝てるものはいない。海燕さんが書評を書かれるのは、そういった真実からひたすら逃避されようとなさるからだ。ここに衆生は海燕さんの「大いなる苦悩」と「慈悲」を見る。
集団レビューサイトにはない、個人レビューサイトの利点とは何か? それは、そのサイトの運営者の優れた「目」に尽きるでしょう。
最早海燕さんの中では「集団」「個人」だのといったものも存在しない。海燕さんの世界観に於いては、「非・海燕」か「海燕」かのどちらかであり、さらに細分化して分けるとすれば「僕の手がついたもの」「僕の手がついていないもの」「僕に反対するもの」「僕に反対しているが、僕自体は興味ないし無視する事にしているもの」くらいだ。だが実を言えば、「非・海燕」等は笑止千番なことだろう。反対し様が反対しまいが、全ては海燕さんに還元されてしまうのである。その様な事は土台不可能なのである。だが、海燕さんは、
とにかくうっぷんを晴らしたくて仕方がない
と言う人間としての最低の領域にも目を注いでしまうのである。普通の高貴気取りならば鼻を摘んで通り過ぎたくなる所にも鼻を突っ込んでしまう。海燕さんとしては救済の手を差し伸べたくてたまらないのであろう。だが、世の中にはどうしても救済する余地のない連中は存在している。そう言う連中に救済の手を差し伸べる必要性は全く感じないのだ。
もちろんそれと同じ事だが、海燕さんが本を読んで「読めよ」等と言う必要性も感じないのである。海燕さんの雑記を見ている衆生は全て海燕さんに劣る、そう言う連中にもう、
いやもう、いいから読めって。絶対おもしろいから。
SF史上屈指の傑作ここにあり。『虎よ、虎よ!』 - Something Orange
等と言う必要はないのではないか。ベスターもカルヴィーノもドストエフスキーも、確かに見方によれば偉大な作家だが、それら全ては所詮海燕さんが書き物を始められるまでの長い前座にしか過ぎないではないか。それなのにいちいち取り上げて持ち上げようとなされる。ここに大いなる「慈悲」が存在するのだ。
海燕さんはどこまでも偉大な方である。海燕さんを越えるもの書きはこれまでも現れなかったし、これからも現れる事はないであろう、恐らく。
vidaとは何か。
http://www.enterbrain.co.jp/techwin/data/contents/cpweb/index.html
エレセンテさん、という方の作ったフリーゲームである。コンテストパークなので当然ながらツクール2000製。
作者サイト http://e-re.jugem.jp/
まずvidaという名前が何から来ているのかは不明である。作者さんから説明があれば有り難い所である。
因みに一番のお気に入りがイムルたんなのであるが、いまだネット上でフルネームが出ていないのでこの際、書いておけばイムル・アビソルトたんである。
教養主義のなれの果て
さて、id:kagamiさんの雑記で、偶々面白いものを見かけてしまった。
http://d.hatena.ne.jp/kagami/20080324
別にid:kagamiさんに恨みがあって晒すのでも何でもない。ただ最近のはてな文芸階層のある種の余り関心出来ない傾向を示している様で何だかなあと思った次第である。
嘗て誰が言い出しっぺになったか知らないが(今は閉鎖しておられるがid:ryotoさん辺りだった筈だ)「私選世界十大小説」等ということを言い出した方がいて、当然その追随者も現れた。結構な数に昇ったと思われる。これを傍から眺めていて、俺は愚劣だなぁと思った。いや、俺などに愚劣だなぁなどと思う資格はないわけだが、そう思わずにはいられなかったのである。挙句の果てには戯曲選集、短篇百選等という者をやり出す輩まで現れたのだ。お前はモームかと。こうなるともう目も当てられないと思った。
これはオナニーだ、そう思ったのである。これとやっている事は2ちゃんねる文学板の「私の好きな小説ベスト5」や「あなたの読書史における10選リイシュー」等と変わらない。だがこれらのスレッドが一部勘違いした輩が訪れていることは目を瞑っても、基本的にオナニーの姿勢を崩さない。だが最近のはてな文芸階層は、これを誰かを教化するために書いている、と言うような節は見受けられるのである。「十代の必読小説リスト」を上げれば本当に十代が読んでくれる、と言ったようにだ。
実際そう言うことは在り得ない。あくまでオナニーだ。勿論俺のこれもオナニーである。「人は誰が何を読んでいるか、何に興味があるかなんて、興味がないんだよ」と山田太一風に言っても、矢張りオナニーは気持がよいものだ。だがそこに罪悪感が付き纏わねばならないような気がするのである。
本を読む方の参考に少しでもなってくれたら、幸いに思います。
嬉々としてオナニーをされている方は矢張り恥ずかしいというものだ。
海燕さんの偉大さについて。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/
さて、何故このように古い日記を出してきて今更このように書き始めるのかといえば一重に海燕さんの偉大さを喧伝したいが為である。何故なれば、彼はネット書評の星だからだ。例えば最新記事であらせられる、
2008-03-20
を見て行くとしよう。ここで海燕さんは名前を言わぬが一人の萌畜を俎上に上げられる。敢えて名前は上げぬものの、この萌畜ときたら酷いもので、書く内容は端からスカスカなくせに萌畜雑誌ライターとして活躍をしているつもりになっているようだ。そこにこの海燕さんと言う方はその文章を引用されて嘲笑われておられるのである。勿論昔から引用はされているがそれが全て嘲笑う為である事を知るものは俺くらいな物であろう。
確かに「少女」「美少女」という言葉はずるいもので、小説の中に出てくるだけで「ああ、多分かわいいんだろうな」という魔力があります。
マンガでの表現になると、そこがちょっと変わってきます。なんせ絵がある。
しかし、多くの作家さんが描いてきた「美少女とされる女の子」は確かに、あらゆる要素をもって「かわいい」とされるのが楽しいところです。だって、美少女、見たいじゃん!
先ず萌畜の言葉、それに対する海燕さんの第一声、
見たい見たい。
から考察していきたい。先ず人は何をするときに「見たい」と欲するのであろうか? これは万古不変の謎である。美少女は俺とても好きだ、だがそれを眺め回す時に、一種の性欲を感じざるを得なくなる訳だ。萌畜は「マンガでの表現になると、そこがちょっと変わってきます。」と、漫画と小説を別個のものとして捉えている、だがそれは本当に是とするに足りるか、というところに、海燕さんの、
見たい見たい。
が存在するのである。見たいを二つ重ねる事により、始めに置いた所の、
見たい
は変質するのである。見たいは既に前の「見たい」を打ち消すものとして存在するのである。例え同じ言葉であっても、二回繰り返される事によりそれは意味を変ずる。例えばハンバート・ハンバートの一度目のハンバートが、決して二度目のハンバートとは異なるように。
ではその謎を引き続き追っていきたい。
ただ、いくら「「少女」「美少女」という言葉はずるいもので、小説の中に出てくるだけで「ああ、多分かわいいんだろうな」という魔力があります」とはいっても、それは巧い作家の話。
「いくら」は当然「イクラ」の事である。「ただ」とは「タダ」の事である。
ここで萌畜の文章を引用するふりをして既に自分の文脈で書きかえられている海燕さんにとっては「少女」が連城三紀彦の映画化もされた作品であり、「美少女」が暗に近頃復刊された吉行淳之介の作品であることを暗示しているぐらいは読み取らねばならないだろう。「タダのイクラ」「連城」「吉行」この一見普通の何でもないことを綴ったかに見える一見稚拙な文章の中に、いかなる暗喩が隠されているのであろうか。先ず吉行淳之介の父親のエイスケはダダイストである。「タダ」に「ダダ」が引っ掛けられているのは当然であると思われる。
では海燕さんのオリジナルの文章に表れる、
巧い作家
とは一体誰を差すのであろうか? 連城はたまた吉行か? これは間違いである。答えから言ってしまえば、これは海燕さんのことである。「書評」しか書いた筈がない海燕さんが、一体どうして「作家」足り得るのであろうか。これを語るのは面倒臭い事だが、出来るだけ省略して書くならば、先ずダダを貫くシュルレアリスムの文脈を伝って、即ち西欧より海燕さんを眺め渡さなければならない。
個人の意識よりも、無意識や集団の意識(中略)繊細さ、色彩の特異性(中略)
シュルレアリスム - Wikipedia
読者は既にご存知であろうが、「集団の意識」の体現者は海燕さんである。もはや俺のような小物が申し上げるまでもなく、海燕さんはネット書評界全体の思想の統括者である。そして、その文章に秘めた、繊細さと色彩の特異性(ゲーテを引くまでもなく、海燕さんの手記のタイトルに含まれるオレンジが既に地中海の女神の恩恵を蒙っている事は言う迄もなかろう)はどのような鬼神をも、魅せるものである。そしてさらに海燕さんは偉大なる人格者でもあらせられる。
さて、些か脱線してしまったが海燕さんが萌畜をどれほど心底軽蔑されているか、という事に戻って書いていきたい。
未熟な作家が書くと、ただ言葉が上滑りするだけで、少しもかわいく思えてなくなってしまう。
極論かもしれませんが、小説の場合、いくら華麗な形容詞を用いて美少女を表現してもあまり意味がないと思うんですね。
悪い例として挙げるのは恐縮ですが、先日読み上げた『とある飛空士への追憶』では、メインヒロインの美貌が言葉を尽くして賛美されていました。
安易な読者は「未熟な作家」=萌畜の事だろうと思われるのであろう。だがそれは大いなる間違いである。正解は「未熟な」のみが萌畜を差すのであり「作家」と言うのは勿論海燕さんのことなのである。ディープな海燕ファンにとっては「作家」という言葉を名乗っていいのは有史より海燕さんだけであり、他の者はそれの足元にも及ばないのである。
以下適当に書くが、「ただ言葉」の「ただ」も矢張り「タダ」が「ダダ」であり、「フリーセックス」を示唆し「言葉」が「桂言葉」である事に間違いはありえない。「上滑り」には潤滑油を用いた騎乗位セックスぐらいの意味が込められていることぐらい察知しなければならない。全てヤンデレ好き(当然日記より数学的に割り出せる事象である)の海燕さんの願望であろう。
「極論」とは即ち極(海燕さん)の論の事で「小説の場合」は「海燕さんの読んだ、海燕さんには及ばないが、海燕さんが推しているのだから、読まなければならないし、読まないものは海燕さんファンではありえない小説」の「場合」即ち「海燕さんの日記」の事であろう。「いくら」が頻出するがこれは海燕さんの好物である「イクラ」である事は間違いない。海燕さんが恐れ多くもアフィリエイトで儲けた金は、全て「イクラ」を買うために使われるのである。
「華麗な形容詞」まさに海燕さんの人生の事である。これに溢れていない海燕さんは最早海燕では在り得ない。だが「意味がない」と仰られる辺り、海燕さんは「人生の阿呆」としての認識を持っておられるのではあるまいか。だがそのようなことは心配される必要はないと言っておきたい。悪いのは萌畜であり、海燕さんは神である。以下文章が続くが語るまでもないだろう。偉大なる兄弟海燕に幸いあれ!!